片岡義男さんの『珈琲トリロジー』を読了。
この上なく洒落てて、この上なく珈琲が飲みたくなる作品でした。

一作目『珈琲にドーナツ盤』は片岡さん初の私小説。
二作目『珈琲が呼ぶ』は片岡ワールド炸裂の珈琲エッセイ。
ラストを飾る三作目『僕は珈琲』は二作目の続編、さらに磨き上げられた珈琲エッセイが51篇収録されています。
むかし実家の本棚に片岡さんの文庫が並んでいて、自分の本で読むものがないとき漁って読んだのが人生初の片岡文学体験で、そこから長い長い年月が経過した今、こうして久しぶりに片岡さんの作品を手にしたわけだけど、いやー、いったい私は何をしていたのですかね。
たぶんあのときは未熟過ぎて、この素晴らしさを理解できる、ひとりの人間になれていなかったのだなあ。。。
この三部作は本屋をウロウロしてたとき、たまたま目について、そういえばむかし文庫を読んだと思い出し購入したんだけど、読み始めたらあれよあれよと引き込まれ、すっかり虜になり、なかでも気に入ったのがこちらでした。

帯に音楽的自伝小説とあるように、すべてのストーリーに音楽が絡んでいて、1960年から1973年の片岡さんが作家になる前のこと、大学生時代、3カ月の会社員時代、そしてフリーランスのライターとして活動していた時代のことが語られています。
コクヨの原稿用紙を「タイム」に巻き込んで幅の広い輪ゴムでとめたものと、シャツの胸ポケットに金属のキャップをかぶせた3Bの鉛筆1本(しかしこれは後に芯ホルダーへとかわる)と消しゴムひとつ。
そんなスタイルで片岡さんは、自宅があった世田谷代田から小田急線の各駅停車で新宿まで出て、そのあと中央線に乗り換え御茶ノ水下車、そこから喫茶店のはしごが始まります。
御茶ノ水から神保町の喫茶店でさまざまな雑誌への原稿を書き、仕上がると店内の赤もしくはピンク電話から担当編集者に連絡を入れ喫茶店まで来てもらいます。
何というか、、、とても飄々としていて、身軽なんですよね。
原稿は濃い鉛筆で大きな字で書かれたそうなんですけど、見てみたいなぁ、当時の原稿を。
ディーン・マーティンもリッキー・ネルソンも、いまのうちだから
一月一日の午後、彼女はヴェランダの洗濯物を取り込んだ
湖のほとりのプールに陽は沈む。そして夏は終わる
営業の人になりきったら、それ以外の人にはなれないでしょう?
バラッドは彼女の全身に吸い込まれていった
クリーム・ソーダは美しい緑色のフィクションだ
読まれてこそ詩になるのよ
今日のコーヒーは、ひときわ苦いな
楽しく美しい本を、まだ僕は一冊も作ってはいないではないか
こうでしかあり得ないからこうなった歌
私の心のなかは、まっ暗よ。たぶん、おそらく、きっとね
部屋を暗くし、目を閉じ、自分は動詞になる
その歌をもっとも淡白に歌った彼女が傘を僕に差し出した
という具合に、目次から適当にタイトルを拾い上げ並べただけで一篇の詩が出来上がってしまうこの本は、とても楽しく美しい本です。
そのなかで、特に気に入ったものをあげるとすると、雪は降る。「どうかよろしく」「こちらこそ」 という物語と、真珠の首飾りを彼女がナイト・テーブルに置いた という物語でした。
雪は降る。「どうかよろしく」「こちらこそ」 は、もうほんとに、この上なく大人で、この上なく洒落てて、307頁の「電話?」という何気ない問いかけから、315頁の「どうかよろしく」「こちらこそ」に至るまでの男女のやりとりが、とにかくよい。
真珠の首飾りを彼女がナイト・テーブルに置いた のほうも、やはり男女関係が絡めてあって、ただ 雪は降る。「どうかよろしく」「こちらこそ」 とは対照的。
なんだけど、何だかこの感じ、とてもよくわかるのですよね、私。
なので以下、この感じ、の引用です。
確かに、この感じ、わかる、と、共感していただけるかたがいらっしゃるとよいのですけど。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今後ともどうぞご贔屓に。
「かつてつきあっていたその女性が、ある日の夜、真珠の首飾りをしてたんだよ。途中をすべて省略して最後の場面だけを語ることにすると、その場面はホテルの部屋だ。俺と彼女はその部屋で一夜を過ごすことにしていた。俺が先にシャワーを使って、部屋の浴衣を着て浴室から出て来た。部屋の明かりはすでにほの暗くなっていた。俺はベッドに入ったよ。彼女はソファにすわってたけど、やおら立ち上がってベッドのかたわらまで来て、俺は見てなかったのがいけなかったかもしれないが、じつはほの暗いなかでベッドのかたわらに立ち、彼女は自分の首から真珠の首飾りをはずしてたんだ。はずしたそれを彼女は、ベッドのかたわらのナイト・テーブルに置いた。そのときの音が、じつに汚くしかも大きな音でね。じゃらじゃら、ごたがた、じゃらんじょこん、という音だった。彼女を見ていなかった俺は、その音だけを、いきなり聴いた。真珠の首飾りをはずしてナイト・テーブルに置いたのだ、ということはすぐにわかった。と同時に、最終的にわかったのは、これは駄目だ、ということさ」
そこで彼は言葉を切った。しばらく黙ったままだったので、
「なにが駄目だったのですか」
と僕は訊いてみた。
「この女性と結婚するのはよそう、と俺はきめた」
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